「独り言」:自分の思考は、本当に自分なのか?

先日、MITテクノロジーレビューの記事で、【「生成AIはコピー機」という主張から考える創造性の原理】という記事を読みました。
生成AIを日常的に使い、何か考える時に、自分の考えを生成AIに投げなけ、その応答を読みながら、思考を続けることが当たり前になっています。

今まで、全く考えたこともない領域のことでさえ、対象への理解の情報を集めたり、対処方法を整理したり、自分の考えを続ける上で、生成AIは、本当に有益なパートナーになっています。

自分の考えとしてまとめた結果は、本当に自分の思考といえるのでしょうか?
生成AIに誘導された結果を、自分の考えとして追認しているだけなのかも、そんな疑問が芽生えました。

それは、一つの記事を読んでからのこと

私は、数年前からMITテクノロジーレビューという情報を購読しています。
海外の研究者や開発者の発信している情報も多くあり、気になる視点を提供してくれるそんな情報が沢山あります。
今回気になった記事は、【「生成AIはコピー機」という主張から考える創造性の原理】問記事です。
生成AIの生成物は、過去の大量な情報を元に生成されているという点で、オリジナルなのか?と、色々見解の分かれるところです。
しかし、芸術でも科学技術でも、さまざまな製品にしても、過去の影響を受けていないとは言い切れません。
このことには、非常に同感します。
そんななか、自分の思考はどうなのか?
そんな疑問について考えてみました。

生成AIが日常になる前後で

長年、私は会社員としてシステム開発を行ってきました。
仕事を始めた1985年は、まだ身近にはネット環境は少なく、せいぜいパソコン通信がサービスを開始したころで、そこから得られる情報は限定的でした。
もっぱら、書籍や雑誌からの情報と、先輩などの人づての情報でした。

その後、インターネットの商用サービスも始まり、個人でもインターネットが使えるようになり、当然、会社でもインターネットが使えたりして、情報源としてネットを利用するようになりました。
しかし、まだまだネット検索も十分でもなく、やはり書籍中心でしたが、Googleなどの検索サービスの普及により、情報はネットで調べられるようになりました。

ネット検索で、各段に情報の取得は改善され、それに伴い、未知の領域にも視野を広げやすくなりました。

とはいえ、検索キーワードが駆使できないと、なかなか情報にたどり着けないという課題はありました。

ChatGPTの衝撃は凄かった

そんな中で、ChatGPTというか、GPTという生成AIの登場は凄いに尽きます。
GPTが出た頃、「そんなものがあるんだ」くらいに思っていましたが、それが、対話サービスとして、ChatGPTとなり、さらに、Web検索と連動するプラグインが追加され、今では、複数のタスクを組合わせるような思考とでも呼べるくらいに、なっています。

このような時代が進むにつれ、今では、何かをするとき、常に、生成AIと対話しながら、作業をしている自分になってしまっています。
生成AIに指示されて、自分が動いているというつもりはありませんが、生成AIの回答を受け入れ、次の行動を起こしているのです。

最初の問いかけは、確かに自分が行っているので、事の始まりは、まぎれもなく自分です。

しかし、その後の進め方であったり、設計であったり、コーディングであったり、デバッグや問題解決全てに渡り、良きパートナーといった感じです。

もちろん、自分にとって受け入れられない回答は、訂正を求めたりはします。

自分のアウトプットは、自分の創作物といえるの

こうして、自分が行う活動について、自分が考えているといえるのか?
最終的に、生成AIのアウトプットを容認しているに過ぎないのか?
自分という個性や価値は、どこにあるのか?

自分という存在が、生成AIという集合知を活用した結果としてのアウトプットを生み出していると考えると、これもまた、自分の創造物だと思うことにして、これからも開発に取り組みたいと思います。