定年をまたぐ時に。。。

定年退職を決めてしばらくして、癌が見つかった。
命に限りがあることの、現実を突きつけられた瞬間とはこういうものなのか、少しショックを受けた。
このブログは、その闘病を記録しておこうと、入院した2022/9/2から書きはじめることにした。

はじまり


2021年5月に、定年退職することを決めた。
会社に伝えて時でさえ、定年後はどういう暮らしをするのか、それほど具体的に考えがあったというわけではなかった。
大学を卒業して、就職を決めてから、ソフトウェア開発一筋で仕事をやってきた。
その間には、本当にいろいろなことがあったと思い出すなかで、一貫して自分は、ソフトウェアを通して、自分を表現してきたのだと、定年を迎えた今思うことである。
本質的には、「製品=自分」という想いを込めて製品を作ってきたように思うが、それは自社製品だけでなく、お客様のシステムを開発したとしても、そこに自分の考えがあったように思える。
なかでも、「Visual Nexus」は、本当に最初から関わった自分の開発者人生で一番思い入れのある製品であった。
海外との取引もあり、「365日24時間働けますか」を地で行ってると思えるくらい忙しかったが、楽しくもあった製品だった。
Visual Nexusもメンテナンスフェーズになると、楽しいと思えることも少なくなり、苦痛な事も多くあり、その場から離れたいとさえ思うようになった。
しかし、このVisual Nexusの次に自分が何をしたいのかを考えた時に、本当に何をしたいのかも思い描けない、そんな時に、背中に激痛を感じたのである。
腎臓結石が動いたときのような、久しぶりの痛みであったが、「また、そのうち収まるだろう」くらいに考えていたところ、妻が、「一度、病院で診てもらったら」との一言でから、診察を受けたのであった。
既にコロナ禍で、実家で1年以上テレワーク中ということもあり、公立豊岡病院で診察を受たのである。
腎臓結石は、いつものようにあり、落ち着いていたが、他に行った検査で、前立腺肥大の疑いが見つかり、さらに検査を続けなければならなくなった。
それから、数回、いろいろな検査の結果、今度は、前立腺癌の疑い出てきて、ついに生検となった。
生検を軽く考えていた私は、この後、人生で経験した中でトツプクラスの痛みを伴う検査で、あることを、検査まで知らずに臨むことになるのである。
検査では、あまりの痛みで、悶絶していたのか、先生も、「これくらいとればいいにしようか」といって、予定より少し少ない箇所の細胞の採取で止めたように記憶している。その後、先生は、「麻酔すればよかったね」と言っていましたが、本当に麻酔を強く勧めてほしかったと痛感した。

癌の確定診断


生検を行う時点で、ほぼ癌だとは聞いていたが、確定ではないということに、何か望みを懸けていたのでしょう。
まだ、結果を聞くまでは、深刻には受け止めていなかったように、今では思える。
いよいよ、検査結果を聞きに行きました。その時は、確か「家族も一緒に来てください」という、よくドラマであるパターンで、妻と一緒に病院へ行った。
順番が回ってきて、診察室で先生の話を聞き、「前立腺癌です」と確定診断を聞いた時でさえ、それでも、まだ、手術して摘出すれば、治る程度に考えていたように思う。
前立腺癌は、既に前立腺にまんべんなく広がっており、前立腺全提出が必要で、転移がどの程度あるかが、問題ということで、もし転移があれば、その時点でステージ4みたいで、本当は深刻な事態の可能性もあったことは、後に知ることになるのである。
とりあえず、前立腺の全摘出手術を行い、その後転移があれば、放射線治療にするのが、私の年齢が、まだ59歳ということで、勧められた。
放射線治療を行うと、組織の癒着なども起こる可能性もあり、手術が難しくなるとのことであった。
もう少し年をとっていれば、放射線治療だけもありだったようですが、年齢によって治療も違うようだ。
やはり癌というものは、転移がどの程度かを調べるために、骨シンチや、全身MRIや、エコーなど、何度もいろいろな検査を続けていくことになった。
確定診断後、1か月くらいして、検査をした結果、まだ、前立腺から外への転移はないようで、少し安心することができた。
既に確定診断ができたので、癌のホルモン治療も始まっており、ホルモン治療で前立腺を小さくしてから、手術したほうがよいとのことであった。
抗がん剤治療ではなく、あくまでホルモン治療ということで、全摘出手術に向けて薬の投与が始まりった。
この薬は、結構きつくて、注射の翌日は、ほとんど動けない。2~3日すると、落ち着いてきますが、結構つらいものである。
家族とは、「お父さんも、女性化するかもね」と冗談言ったりしていました。
体は少し女性化しているようなところもありますが、まだ、お父さんでいられますね。

定年退職までの10か月


癌の確定診断の後、定年退職まで、まだ10か月もある。
定年退職までに手術するのか、退職後に手術するのか選択することは可能で、先生は、手術タイミングは、私に委ねるとのことであった。
前立腺癌は、進行が遅いことと、まだ、転移していないこと、ホルモン治療の効果も出てきていたことから、手術スケジュールは、定年退職後にすることとして、それまでに色々な整理をしようと考えた。
定年までの10か月に、会社員技術者としての最後の取組を完結させるとともに、定年後に向けてには、とても良い時間となった。
一つは、Visual Nexusの次の製品へ向けた取り組みを、若いメンバーとともに取り組めたこと、しかも、直接のコードを担当することなく、オブザーバー的なかかわり方は、自分にもメンバーのみなさんにとってもよかったと今でも思う。
それから、もう一つ、メタバースという言葉が聞かれるようになり、「新しいフロンティアを求めて」という取組を、違う組織の人とできたということです。
私の所属は、関東に拠点のある部門にもかかわらず、一人だけ、関西の別組織の場所に席を借りて、15年を過ごしたという異色の働き方をしてきた。
Visual Nexusというビデオ会議製品を開発して20年くらい(?)の内、17年くらいは、今でいうテレワーク状態だったので、関西拠点の人とも親しくならなければ、やっていけません的なこともあり、本当に仲良くさせていただき、最後の10か月の2021/9~ メタバースに取組みを続けることになった。
最初は、「Oculus Quest買いました?」/「買ってないよ」のやり取りで、個人的にメタバースに取り組むことを始め、そこから、仲間も増え、2022/3には、社内のイベントでも紹介展示を行い、専務などにも体験してもらうまでになったことは、周りの人の尽力によるところが大きかった。
ついに、2022/4には社長にも少しだけ体験してもらうことができ、この取組みの成果が出たと一定の満足感というか達成感も味わうことができた。
その間も、時々、退職後は、本当にどうしよう?
ということを考えるようにになり、会社を辞めると、人間関係も変わるだろうし、何もしなくなり、ボケてしまわないかという心配もあり、「人とつながっていたい」という思いと、自分の命の限りがあること、これらのことを良く考える10か月の中で、結論として、自分でブログで情報を発信することで、自分自身の生きた証を残そうという思いに至ったのである。

TanaKafeWorks


まだ、コロナもないころ、会社でコーヒーサーバの運用が始まった。
コーヒー好きの人が、家から、コーヒーサーバを持ってきてくれ、毎日水を入れたりする世話が必要だったので、なぜか、私がそれをやるようになっていた。
「やって」と言われたわけでもなく、自分も飲むので、ついでにやるようになったって感じなのである。
そのうち、自分だけ飲むのも気が引け、コーヒーカートリッジを置いて、飲みたい人がいつでも飲めるようにした。
小さな看板をかけようとして、名前をつけようとすると、同僚から「TanaKafe」でいいんじゃないですか?
Cafeではなく、田中さんなので、Kafeということだそうです。
ということで、「TanaKafe」という名前で、コーヒーサーバの運用を始め、カートリッジを無料で提供するのも辛いので、50円として実費を貯金箱に入れるようにして、コーヒーを飲むことで、話の輪が広がればよいと考えていたのである。
お金は厳格なものではなく、適当で、いれても、いれなくてもOKということで、運営していた。
私は、元来、人との話の中で、刺激を受け、新たな興味を持ってきたという想いから、職場での何気ないコミュニケーションを始めるきっかけを作りたかったということが、本当のところである。
最近、SUNTORYさんが「社長のおごり」という自販機の設置をされたりしていますが、それを、ずっと前からはじめていたということです。
十分に役割を果たせたかどうかはわかりませんし、自己満足の何ものでもないかもしれませんが、少しは、コミュニケーションできたと思っています。
そんなコミュニケーションの中から、「TanaKafeいいね」というシステムが社内で生まれたことは、成果の一つだったのでしょう。
「TanaKafeいいね」は、直接コード作成には携わってはなかったことから、自分の作品ではなかったことから、私の生きた証を残すには、やはり、自分で企画、開発、情報発信を全て行うことに取り組まねばならないと考えるになった。そして、TanaKafeWorksとして、ブログ、動画制作の手法を使い、メタバースなどのコミュニケーションへ今後も取り組んでい行きたいと結論したのである。
そして、ブログや動画のその先に、自分自身をメタバースで表現し、それぞれの人の思考のように反応するAIと連携した永遠の命を作ってみたいと思うようになった。
自分だけでは到底作れないですが、人が作ったものを利用してでも、自分の存在のコピーができると、一度自分と対話してみたいと本当に考えているのである。

癌手術に臨むにあたり


命には限りがあります。
癌宣告を受けて、自分の命の限りを実感した。
2022/9/5手術室に入ると、全身麻酔で意識を失います。
その後、目覚めることを期待していますが、本当のところはわからない。
この意識を失った状態とはどういうものなのか、これは、よい経験になるかもしれない。
麻酔医の先生は、「意識がなくなっても、話声が聞こえたとかいう人がいますが、そうれはよくないこと」と言われました。それは恐怖を感じてトラウマになるかも。。。なんて脅かされた。
意識とはどういうものかも、興味がある私としては、複雑な気持ちで手術の臨むことになる。

とりあえず、「まな板の鯉」なので、無事生還することを願って、このブログの前編を終わりにする。

手術からの生還


手術当日の朝から、手術の準備で慌ただしく、看護師さんに言われるままに、準備を整え、「いざ!手術室へ」と、ベッドで運ばれるのかと思いきや、歩いていったのである。
手術室に入ると、「ダヴィンチXiシステム」というロボット手術システムが置いてあり、なかなか、かっこよかったですね。
早速ベッドに寝かされましたが、以前にアキレス腱手術とは違い、西川の無圧布団のようなところに寝かされ、早速麻酔の準備に入った。
点滴を指して、薬が注入され始めたようですが、いっこうに普段とかわななかったのですが、薬液がきちんと入っていなかったようで、薬液注入が確認され始めると、「ふわー」とした感覚になったといいかけながら、意識がなくなった。

次に気づいたときは、遠くから、名前が呼ばれたように聞こえて、数回呼ばれて、「はい」と返事をしたというあたりから意識が戻った感じ。

病室に戻ってからも、しばらくは、記憶があいまいで、しかも、カーテンの模様が、文字に見えたり、小さな音が異常に気になったりと、何かいつもと違う感覚が、手術当日と翌日にあった。
一番ショックだったのは、手術翌日からのリハビリで、立ち上がるだけで、すぐ起立性貧血になり、とても歩けない。
リハビリどころではなかった。
痛み止めを注入し、午後にもう一度、リハビリに挑戦してみると、少しあ歩けましたが、呼吸が「ぜいぜい」してとても病棟の廊下を一人で歩けるものでもなさそうで、看護師さんは、「みなさん歩きますよ!」って言われるので、自分の体力のなさに少しショックをうけたが、とにかく回復させないと、家族に負担がかかるので、頑張ってリハビリしなければと、強く心に誓うのであった。